-日本語教師を知る―
前回はなぜ日本語教師なのかをまとめましたが、「海外」についてはもともと興味を持っていました。中学生の時に初めて買ったLPレコード(LPレコードは死語でしょうか。楽曲を録音してある円盤形の記録メディアです)はノルウェーのバンド、a-haの「Hunting High and Low」でした。a-haを知ったのはデビュー曲の「Take on me」。心躍るような曲調に魅かれすっかりはまりました。Take on meは世界的な大ヒットになりましたね。
「洋楽は世界中の人が聴いている」。当時は洋楽を通じて世界とのつながりを感じていました。今でこそ日本の楽曲もいいなと思いますが、海外ミュージシャンの音楽にあこがれていましたね。英語の意味はよくわからなかったのですが、その曲のメロディや雰囲気を好んで聴いていました。
歴史は動く―「ベルリンの壁」崩壊
高校時代にはより海外志向が強くなります。選択科目だった日本史と世界史では、世界史を選んでいい点数が取れるように力を入れて勉強しました。1989年、今でも忘れませんが東ドイツの「ベルリンの壁」が崩壊したとき、「歴史は動く、世界は動く」というのを実感しました(ベルリンの壁はネットで調べてみてください)。第二次世界体制以降、米国とソ連が対立する「冷戦状態」にあったのですが、当時は徐々に冷戦が雪解けするのを感じました。
海外旅行で会った40代中年男性の生き方
大学生になって日本語教師という職業に出会うことになります。はっきりとは記憶していないのですが、1年間休学してアルバイトをしてお金をためバックパッカーとしてアジアを旅していた時のことだと思います。
中国(?もしくはベトナム)のどこの都市か忘れましたが、当時42歳(だったような)の日本人の中年男性に出会ったのです。彼もバッグパッカーでした。
もともとは学生時代にフランスに留学し(専攻は数学だったと思います)、以後、現地で通訳のような仕事をしながら生計を立て、日本語を教えるようになったとのことでした。会った時はアジア各国で日本語を教え、お金がたまったら旅をしているようでした。
何とも自由で気ままだなと思った記憶があります。彼は「そろそろ日本に戻って仕事に就きたいな」と言っていました。この言葉はよく覚えています。これまで定職がなく40過ぎてから日本に戻って仕事を探しても難しいのではないか、と。
当時、学生だった私は冷静にその人のことを見ていました。ただ、彼のような生き方をしている人に初めて出会ったので、世の中にはさまざまな人がいる―自分の視野を広げる出来事の一つだったと思います。
種火のような思い
日本への帰国後、海外に興味を持っていた私は日本と海外をつなぐ仕事として日本語教師に興味を持ちました。学生時代と社会人になってしばらくの間は外国人に日本語を教えるボランティアをしていたこともあります。
ただ、実際になりたいとまでは思いませんでした。当時は会社員として、やっている仕事にそれなりの意義を感じていたからです(編集関係)。
また日本語教師は給料が驚くほど安いということもありました(これについては別途書くつもりです)。はっきりとは覚えていませんが、これでは食っていけないと思いました。
ただ、バックパッカーと海外を旅行していた時、外国人との交流は本当に楽しいものでした。それを実現する職業として、日本語教師への思いは常に種火のように残っていました。
スタートライン
40歳を過ぎ、ある程度、会社員での生活で先が見えたり今後を考えたりすると、常に日本語教師という職業が選択肢にありました。そこで日本語教師養成講座に通い始めたわけです(これも別途記載します)。給料が安いという現実的な問題もあるので、修了後にすぐに転職ではなく、自分の可能性を広げておくという意味合いでした。
さらに、日本語教師としてやっていこうと思うのであれば、ぜひ合格しておきたいのが日本語教育能力検定試験です。試験に合格することで日本語教師への道がより明確に見えるようになりました。ようやくスタートラインに立った気分です。